言葉は、言葉によってしか説明されません。
いや、みんなの知らない言葉は、みんなの知っている言葉でしか説明することができません。
僕が何か、みんなの知らないことを知っているとしても、それに新しい名前をつけて終わり、というわけにはいきません。
その新しい名前=言葉は、僕にしかわからないわけですから。
それについてわかってもらおうと思ったら、相手の知っている言葉を使って説明する必要があります。
しかし、言葉と言うのは非常に厄介です。
言葉の意味するところが、人によって違うからです。
例えば「あらゆること」と言ったとき、想像することは人によって違います。
その人の意識できる範囲にしか、「あらゆること」は無いからです。
その人の意識に入ってこないようなことは「あらゆること」の中に含まれません。
だけどそれは、僕の「あらゆること」には含まれるかもしれません。
意識できないことは、その人にとって存在しないも同然ですが、それはこの世界に存在しています。
そんなふうに「あらゆること」には差があります。
一人ひとりの言葉には、差があるのです。
だから、相手に合わせた言葉で話す必要があります。
相手の話を聞いていると、行間、言外から観念が漏れてきます。
それを汲み取って、相手の言葉の意味を推測します。
そこから、言葉をチョイスして説明するのです。
だけど、こういう文章はどんな人が読むのか分かりませんから、その言葉の意味を逐一説明していく感じになります。
結果として、文章は長くややこしいものになります。
本当は一対一で対話する方が伝えやすいのです。
YouTubeを見てくれている方はご存知のジャックさんは、僕と毎日顔を合わせています。
僕と毎日ややこしい話をするわけではありませんが、何かしらの小さな気づきのような、小さなアハ体験のような瞬間は、今までに少なからずあったはずです。
文章だけで小さなアハ体験を起こすのは難しいです。
わからない人にはただの冗長な文章だし、わかっている人にはアハハ〜、そういう表現もあるかもね、という感じでしょう。
おっと、また話が逸れました。
辞書を一から作っているような気分になるのです。
文章の中で使う言葉の意味するところから、全部説明しないと伝わらない気がするのです。
それは万里の長城的な大事業です。
一人でコツコツ毎日やっております。
たぶん、一生やっても終わりません。
それでもやり続けるでしょう、たぶん。
素晴らしい詩なんかを読むと、凄すぎて涙が出ます。
自分の表現力を卑下して泣けるわけではありません。
その素晴らしい表現に泣けるのです。
本当のことはただ一つであり、この世界はそれを表現するためにあります。
逆に、この世のあらゆることは、ただ一つの本当のことと結びついています。
すべてはそこに向かっている、そんなことを思い出して泣けるのです。

これを舐めつつ作業します。
