そんな人なかなかいないと思いますが…、もしも僕のこの文章を毎日のように読んでくれていて、確かにそうだなぁ、なんて思っている人がいたら、ちょっと気をつけてください。
それは盲信の可能性があります。
盲信はただの思考停止です。
自分で考える、自分で決める必要があります。
テレビで言っている事は、全部正しいんだと、みんなが思っていた時代がありました
そんな人、今じゃめっきり少なくなりました。
テレビに大学の先生なんかが出てきて、これはこうです、なんて言うと、日本国民のほとんどはそうか〜って信じちゃってたわけです。
それと同じで、ネットに書いてあることを鵜呑みにする人もいます。
有名なインフルエンサーが発信しているからそうなんだと。
あらゆることを一度、疑ってみたほうがいいです。
しかし、疑うという言葉にはちょっと嫌なニュアンスがあります。
日本人は信じることを美徳とするところがあるようです。
それは素晴らしい美徳だと思いますが、思考停止しやすいというデメリットもあります。
自分で考えて、自分で決めるのです。
だけど、考えるとは何かということが、なかなかわかりません。
それは、正しいかどうかを判断することです。
そのためには、正しいとは何かを知る必要があります。
耳タコかもしれませんが「正しい」とは、いつも、どんな時でも、状況や人や時代や国や文化や、あらゆる条件が変わっても、いつも正しいということです。
そんなものこの世に存在するのか?って思うでしょう。
だけど、それは在ります。
それを「考える」のです。
それが考えるということです。
だから、世の中の大半の人は考えたことがありません。
考えていなくて、思っているだけです。
考えるということ自体もわかっていなくて、スタート地点にすら立っていません。
厳しい言い方ですが。
それで哲学が必要なのです。
それは何か、新しい知識を身に付けることではありません。
目の前の現実、自分という現実にひとつずつ気づいていく過程です。
そのとき、知識はほとんど役に立ちません。
むしろ、それはお荷物になります。
なぜ、そんなたくさんの荷物、要は観念を持っているのか、そこに気づいていくのです。
疑う事は考えることの入り口です。
情報も他人も自分も、あらゆるすべてを一度疑ってみてください。
かと言って、あいつに嫌なことをされるんじゃないか、悪いことが起きるんじゃないか、良いことが起きるんじゃないか、そういうことを疑う必要はありません。
疑う対象は目の前の現実です。
勝手に自動的に、目の前の現実を判断している「自分」を疑うです。
さて、勘の良い人はこの話が、また出た、観念の話だ、って気づいているでしょうか。
いつもいつも書いている観念の話です。
自分の持っている観念を全部一度疑ってみたほうが良いですよという話。
自分自身の棚卸し、観念の精査です。
最後に一応、今日は疑った方が良いという表現をしましたので、付け加えておきます。
この文章を読んで、そうだなぁなんて思った方、それのことかもしれませんよ!ってことです。
