昨日の続きです。
僕は断捨離が好きなのです。
やましたひでこ先生の『断捨離』を読んで以来、人生が断捨離なのであります。
といっても、所有するものは結構あります。
ミニマリストみたいな伽藍堂に住んでいる感じではありません。
いや、そういう時期もあったんですけどね。
その頃は、部屋というよりか、四角い箱という感じでした。
たいていの人はたぶん、誤解しています。
断捨離とは、物を減らす、捨てることだと。
結果として、そうなる人がほとんどだけど、そこを目的としていないというか。
僕が思うに、断捨離は「自分で決める」練習なのです。
なぜ自分で決めることを練習する必要があるのか。
みんな自分で決めていないからです。
自分で決めた経験がほとんどない、と言ってもいいかもしれません。
いやいや、毎日毎日、昼に何を食べるのか、営業先で何を話すか、上司からの課題をどう終わらせるのか、あらゆることを自分で決めていますよ、と思う人は多いでしょう。
確かにその通りです。
でも、僕の言うのはそこじゃありません。
もっとそもそもの話です。
お昼時間になったらお昼を食べるのです。
それはなぜでしょうか。
当たり前だから、そう会社で決められているから。
お腹がすいてなくても関係なく、食べなきゃいけないと思う人も多いでしょう。
営業先でお客さんと何を話すか、いろんなことを考えるでしょう。
だけど、そもそもなぜ営業先で話すことを選んでいるんでしょうか。
いつからそうなったんでしょうか。
僕らは毎日ほぼ惰性で生きています。
毎日も同じような生活です。
生活とは判断の連続で、判断の塊、判断そのものといえますが、同じような判断を繰り返しています。
それは悪いことではありません。
人間は安定を求めますし、毎日毎日違う判断をできるように脳はできていません。
だけど、その惰性の元になっているのは何でしょうか。
なぜそういう毎日に落ち着いたのでしょうか。
その大元はどこから来たのでしょうか。
それは「自分で決めた」ことでしょうか。
おそらく、自分で決めていないのです。
当たり前とか、常識とか、普通とか、そういうことに決めてもらっているのです。
そしてそれは全く意識される事はありません。
思い出される事はありません。
自分の毎日の判断、要は生活がどうやって形作られているのか、人生の大元とも言うべき根っこを、誰か他人に決めてもらっているのです。
そういうことを全部まとめて「観念」と呼んでいます。
観念は人それぞれに無数に持っています。
そして、それを自分で気づく、自分で眺める、観察することは、なかなかに難しいのです。
人生を決めている一番の要なのに、それが多くの人には見えないのです。
見えないどころか、そんなものがあることにすら気づかないのです。
それに気づくための超便利ツールが断捨離です。
これはすごい発明です。
手に取れない、見ることもできない観念というものを見えるようにしちゃうのです。
ヒントは自分の周りにある「もの」です。
本当はヒントというよりも、それらは完全にイコールなのですが。
部屋を眺めると、いろんなものがあるでしょう。
その一つ一つに、そこに置かれている理由があります。
いつか過去に、そこに置いておく、という判断を、自分がしたからそこにあるのです。
もらってきた、買ってきた、押し付けられた…どうやってそこに来たのかはわかりません。
だけど、その後も動かされずに捨てられずにそこにあります。
ものが勝手に移動してくることはありませんし、歩いて出て行くこともありません。
そういう自身の判断が過去にあったから、ものはそこにあるのです。
その判断はどこからやってきたのでしょう。
それは惰性であり、自身の観念そのものなのです。
ものがそこにある理由を、自分の中に探すのです。
誰かのせいにしてはいけません。
誰かに従うと決めている自分を見るのです。
すべてのものに、自分の観念が見えます。
初めは凝視することができないものも多いでしょう。
そんなボス級のものは、今は考える必要はありません。
とにかく簡単なものから始めてください。
ドラクエで言うなら、始めはやっぱりスライムからなのです。
経験値を積んで、自身のレベルを上げ、武器を揃えてボスに挑むのです。
レベル1でボスに挑まないでください。
身の回りのものは、自分の観念と完全にイコールです。
ものが勝手に歩いてくることはなくて、そこには何らかの見えない力が働いていたはずなのです。
それを自分の中に探すのです。
自分の中に原因を発見したら、それを観念と呼んでいるわけですが、それが今でも、今からも必要かどうかを自分で決めてください。
まだ自分で決められないものはボスキャラですから、今はまだ相手にしないでください。
なぜかボスキャラから行きたがる無謀な人が多いのです。
それでは断捨離は失敗します。
ドラクエならクリアできない、ということです。
自分の中に発見した観念を手放すことにしたならば、ものがそこにある理由はなくなります。
結果として、部屋からそのものが消えることになります。
捨てるのか、売るのか、人にあげるのか、それは人それぞれです。
そこは重要ではなく、ただの結果です。
観念を発見し、眺め、必要か必要でないかを決める、その繰り返しが断捨離です。
それは修行みたいなものであり、人生を生きる態度なんです。
今日は身の回りのものについて、断捨離的視点で書きました。
明日はさらに応用に行きましょう。
ものは見えるから楽なのです。
次回は、見えない「こと」を見ることにしましょう。
ちょっと長い話になりそうです。

