前回までの記事。



管理された社会において、
僕らは奴隷です。
それはもう
どうしようもないと思うのです。
だけど、奴隷として生きることを望まないのなら
作ってはいけないコミュニティがあって、
それが前回の話でした。
形のあるコミュニティは、
今までの癖でピラミッドになってしまうこと、
潰される可能性があること。
今回はその逆の話。
未来をつくるためのコミュニティがあります。
「奴隷的コミュニティ論」です。
会じゃない会
未来のコミュニティに
はっきりとした形はありません。
それは「会じゃない会」。
非常にわかりにくい感覚です。
これを「飲み会」と表現した人がいて、
それがとってもわかりやすいように思います。
* * * * *
「来週あたり、みんなで飲みに行かない〜〜?」
って感じの軽いお誘いから飲み会は始まります。
「おっいいね〜、ちょうど行きたい店あるんよね〜」
「じゃあ、アイツらにも声かけとくわ」
みたいに話は少し膨らんで当日を迎えます。
飲み会にはいろんな人が集まります。
いつもの言い出しっぺ、
お店を決めるのが得意な人、
あいつがいないと盛りあがらないタイプ、
たまに来るダークホース、
最近見かけなくなった人、
いつもいるけど、隅で飲んでて目立たない、
友達を作るのが得意な人、、
いろんな人が集まるから面白いのです。
いや、いろんな人が集まるから
飲み会という会が存続すると言ってもいいでしょう。
それぞれの個性、できることを持ち寄って
その才能(というと大袈裟ですが)を発揮して
会は存続します。
そして、、
飲み会には代表者がいません。
役員も一般会員もありません。
定例の会議もないし、議事録もありません。
特別な名前もないし、年会費もありません。
明文化されたルールもないし、参加は自由です。
要は、飲み会には形がありません。
だけど、「飲み会」は「会」なんです。
これが未来のコミュニティです。
すごく、軽い感じなんです。
代表はいないから、トップダウンの組織になりません。
参加してもいいし、しなくてもいいです。
それぞれが独立して生活しています。
趣味の集まりと言った方が近いかもしれません。
メンバーは流動的です。
メンバーだからと言って、必ず会に貢献しないといけないこともありません。
それぞれが世話役ですが、貢献度はそれぞれに違います。
できることを持ち寄って、会は存続します。
貢献度に応じた報酬が支払われる時もあるでしょう。
コミュニティの過去と未来
そんな風に表現すると、ITに興味がある人は
WEB3.0やDAO、という概念を思いだすかもしれません。
未来のコミュニティを
デジタルで表現するのがそれらです。
実はこういう概念は
今まさに社会に実装されようとしているのです。
そういう未来はもう来るのですよ。
そして、、
日本では過去を振り返っても
似たようなものがあります。
それが「結い」です。
田んぼなんかの農作業や
屋根のかやぶき作業は大変ですから
みんなで作業したわけです。
だけど、昔の結いはもっと強制的なものでした。
親戚だから、近所だから、という理由で
自分がしたいかしたくないかに関わらず
参加せざるを得ないものでした。
昔は生活のゆとりが少なくて
自分の意思に関わらず、やらねばならんことだったのです。
でも、今はそうではありません。
僕もたくさんの人に田んぼを手伝ってもらっていて、
僕もいろんな田んぼへ顔を出しています。
それは強制ではありません。
親族だから絶対、村の人だから行かなきゃ、
ってことは全くありません。
現代は昔と違って、
それをしたい人だけが集まることができるんです。
そんな現代の結いは、趣味の集まりと言った方が近いでしょう。
イナコメという本の中で「結い2.0」と表現しました。
浮かび上がるコミュニティ
いつも生活を共にしているわけではなく、
いつもつるんでるわけでもありませんが
必要があれば、集まります。
いつもいつも群れる必要はありませんし、
無理に交友関係を広げる必要もありません。
知人友人は多ければ多い方がいい、という常識は
お金は多ければ多い方がいい、という常識と同じで
ただの思い込みです。
もしかして、そうじゃないかも、、って
気づいた人がポツポツと
ピラミッド社会の現代に増えているんです。
気づいた人たちは
形のない会を作っていきます。
* * * * *
江戸の町民文化に
いろんなコミュニティに出入りする、
というのがあったそうです。
今で言えばサークル活動みたいなものでしょうか。
習い事や創作活動、趣味の集まりで
名前を変えて参加していたようです。
名前まで変わったら、
おそらく自身のキャラも変わるでしょうね。
日常的にいろんなコミュニティに顔を出して
コミュニティをサーフィンするように生活するのです。
一つの世界しか知らなかったら
息が詰まることってありますよね。
コミュニティが社会をつくる
ピラミッドの社会には
小さな無数のピラミッドが存在します。
会社、組織、学校、家庭、、、
知らない間にピラミッドになっちゃっています。
そんなピラミッドの数々が集まって、
社会は大きなピラミッドになっています。
それに対して、
未来の丸い社会の最小単位は個人ですが、
もう一つ重要なのが形のないコミュニティです。
それはゆるいつながり、です。
いろんな人と繋がっていて
状況やタイミングに応じて
そのつながりはどんどん形を変えていきます。
少し俯瞰してみると
そのつながりは生き物のように、
あるいは何かの化学反応のように、
ゆらめいて動いているように見えるかもしれません。
そんな柔軟なつながりが
社会をなんとなく形作ります。
それらは形がないから、規制することができません。
形がないから、潰しようがありません。
だけど、数が増えてくると
社会として認識できるようになります。
その時にはもう、
その丸い社会は止めようがありませんし、
その桁違いの合理性、有効性も
自明となっているでしょう。
現代のピラミッドの管理社会は
不合理極まりない、過去の産物だと
みんなが気づき始めるのです。
みんなとは、
今、管理している人も、されている人も、
という意味です。
大多数が気づかなければ
最終的には意味がないのです。
【次回】未来を待つ必要はないん駄話
次回は最終回にしましょう。
もう少し余談をして
奴隷の生き方論は一旦終わりにします。

ではまた明日〜
いつもご訪問ありがとうございます。
