誰かができないことをするだけ

僕がいつも言っているようなこと、
妙に哲学っぽい、
屁理屈をこねくり回すような、
めんどくさい話って、
余裕がないとできません。

生活に余裕があるときにだけできる
余暇みたいな、趣味みたいなものです。

生活に追われ、必死になっている時に
こんなややこしい話、
考える暇も余裕もありません。

それはある種、エンタメみたいなもの。
生活必需品ではなかったりします。

逆に言えば、
僕がいつもそんな
くだらないことを考えていられるのは
余裕があるから、です。

今の時代、生きていくだけなら
そんなに大した労力はいらないのです。

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何事もないのなら

ただし、、

何かがあって、その生活の基盤が失われたとき、
そんな余裕はどこにもありません。

僕が今のような生活を夢想し始めたのは
3.11が起こるより前のことでした。

だけど、現実に3.11が起こって
やっぱり自分の考えを形にしなきゃ、
と思ったんです。

要は、
恐ろしい津波の映像を見て
山に逃げようと思ったってことです。

そして、3.11から3年経って、
僕はこの村にようやく移住しました。
2014年のことでした。

それからはいろんなことを経験することができました。
それは自分が望んだから、ということもあったでしょうが、
ほとんど全て、周りの皆さんのおかげでした。

僕なんか、全然大したものじゃありません。

どこまで行っても

今現在、電気が止まっても
僕はそんなに困りません。

井戸水を揚げるポンプが動かなくなるのが
一番めんどくさいかな。。

ただ、飲める清水は近所にもいろいろありますから、
水は汲んでくればいいだけです。

米は作っていますから、当然あります。
味噌はいつも1年分あります。
塩はショップでも取り扱っていますから、
売るほどあります。

ガスはプロパンですから、
しばらくは問題ありません。
ボイラは灯油ですが、
そちらもしばらくは問題ありません。

最悪、薪ストーブがありますから、
お湯も調理もめんどくさいけど、問題ありません。

インターネットや携帯はしばらくおあずけ。
デジタルデトックス、という感じでしょうか。

灯りには小さな灯油のランプがありますが、
倒れる危険とかあって意外と危ないですし、
暗くなったらとっとと寝る方が無難です。

移動には悪路に強い軽トラがあります。

そんな感じで、
うちは災害には強い方でしょう。

だけど、どこまで行っても自然には敵わないのです。
いつ何が起こるかなんて、誰にもわかりません。

恐怖心に動かされた

あの頃の僕にとって、
移住の動機は「恐怖心」でした。

自然に回帰するような生き方をしないと
もう生きていけなくなるんじゃないか、
と感じていた頃があったのです。

だから、自給自足することを考えました。

野菜ではなくて
まず、米を作ることを選びました。
なるべくお金に頼らずに
自分で解決することを考えました。

だけど、実際にやってみたら
僕には完全な自給自足は無理でした。
たぶん、多くの人にとっても同じだと思います。

結局、社会の中で人々と繋がって
全体として自給自足するしかないのです。
そして、よく考えたら
全体として自給自足してるなんて、
昔々の大昔から現代まで、ずっとそうなのです。

全体として、というのは
一人では完結できない、ってこと。
誰かができないことを
違う誰かがやっているのです。

それは土地や気候による制約もあれば、
人それぞれの向き不向きみたいなこともあります。

昔から、そんなことを組み合わせて
社会は成り立っていました。

今だって、これからだって、
ずっとそうなんです。

そんなことを思うようになったら
動機としての恐怖心はもうありませんでした。

何をすべきか

そんな社会を見渡した上で
自分がやるべきことは、
ただ自分の才能を発揮することです。

才能とは、
誰かにできなくて、自分にはできることです。

そんな才能を発揮するだけ。

あとは勝手に
全体としてはいい感じになってくれます、たぶん。

できることが好きなことかどうか、
儲かるかどうか、
そういうのはあんまり関係なさそうです。

好きなことだけ、
楽しいと思うことだけをやりなさい、
みたいな話もありますが、
突き詰めるとどっちでもいい感じがします。

好きなことも楽しいことも良いのだけど、
本当にできることって
実際、そうでなかったりもするから、です。

普通の人には見えない部分まで、
あまりにも細かいところが見えたり
感じられたりするわけです。
それは向こうから目に飛び込んでくるのです。

そうすると、
自分の仕事のアラが見えすぎて
納得いく仕事ができることなんて一生ない、
なんてこともあるでしょう。

そういうのも才能の一面です。
好きなだけ、楽しいだけではありません。

そんなことを続けていくって
なかなかの酔狂です。
普通じゃありません。

その酔狂が実現される可能性を少しでも高めるために
お金から少し離れて、奴隷をやめるのです。

命を預ける

運転の荒いドライバーだとしても
車に乗ってしまったら
命を預けるしかありません。

それが嫌なら、
車からそっと降りるしかありません。

同じように、
どんなにこの社会の在り方が嫌だとしても
そこに命を預けるしかありません。

それが嫌なら
そっと降りるしかありません。

自給自足で社会から降りようと思ったのですが、
僕には無理でした。

少し離れただけです。
その距離感を得るためには
今までの試行錯誤は必要だったんでしょうね。

風邪で寝込んでいる時もお構いなしに
僕の上で寝ようとします。
重いです。

ではまた明日〜
いつもご訪問ありがとうございます。

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