将棋を楽しんでいるとしましょう。
盤面を挟んで、うんうんと悩み、
勝った負けたと喜び、
ときには怒り悔しがり、
またある人はその人生をかけて将棋に取り組みます。
隣では猫がそんな光景を眺めて、
退屈そうにたまにあくびをします。
将棋の盤面に熱中する僕らと
隣であくびする猫。
猫に将棋はできませんが、
僕らは将棋をすることができます。
どちらがいいのかは、
ちょっとわかりません。
将棋はルールに則って行われますが、
僕らは将棋のルールを理解できます。
そして、同じ一つのルールを自分と相手は共通に知っています。
ルールの中で勝負するから、
将棋を楽しむことができます。
隣で眺める猫は、
将棋のルールを理解することができませんから、
将棋を楽しむことはできません。
ま、当たり前の話ですね。
* * * * *
人生にはルールが必要です。
それが観念です。
観念が全くなかったとしたら、人生という物語もありません。
僕の人生が存在するためには、僕の観念が必要なんです。
だけど普段の僕たちが、
自分で自分に課した人生のルール、観念を
意識することはあまりありません。
だって、将棋に没頭しているときに
ルールは思い出さないでしょう。
それはあまりにも当たり前すぎる、
前提条件的な空気みたいな話なのです。
誰かが将棋に集中している時、
隣で将棋のルールを説明し出したら、
そんなことわかっとるわい!うるせーよ!と言われて
ウザいやつ認定されるのは間違いありません。
だけど、、
将棋のルールがなかったら、
今楽しんでいるその将棋は
この世に存在できない、
というのもまた事実でありまして、、
いや、なんかスイマセン。。
* * * * *
ところで、将棋をするときに
お互いに知っている将棋のルールが違っていたら、
どうなってしまうでしょうか。
相手は歩が斜めに動けると主張し、
僕は二歩はどうなるのかと主張します。
それくらいの差ならまだいいかもしれませんが、
将棋崩しのことを将棋と思っている人と将棋をしようと思っても
なかなか難しそうではあります。
そんな時には必ず、将棋のルールが意識されます。
人生のルール、観念を意識するのも
そんな時かもしれませんね。
知らない文化、自分の知らない常識と遭遇したとき、
自ずから、自分の人生のルールを顧みる機会になるのです。
ではまた明日〜
いつもご訪問ありがとうございます。